漢中
「諸将及び士卒多く道で亡げ帰り、士卒皆東に帰ることを思いて歌う」
劉備がこの地を得て漢中王と名乗り、後に蜀漢を建てたことから、知名度は非常に高いですね。地名だけに。なーんちゃって。はははー。
ナイスなジョークでしっかり掴んだところで、次へ行ってみましょう。え? 掴めてない?
漢中王の由来
そもそも劉備が漢中王を名乗ったのはなぜか。それは、漢王朝を創立した劉邦が、漢中で王となった故事に由来します。
秦により天下が統一され、戦国時代が終わったことにより、大陸に平和が訪れたかに見えました。
しかし初代皇帝である始皇帝の死後、彼の苛烈な統治に対する憤懣が爆発。陳勝呉広の乱をきっかけに、再び天下は乱れます。
そんな中頭角を現した劉邦と項羽は、自分たちが盟主として擁立した楚の懐王の「秦の首都・咸陽に一番乗りをした者に関中(秦の本拠地)を与える」という言葉に従い、進撃します。
先に咸陽を陥落させたのは劉邦でした。劉邦は項羽に関中の手柄を横取りされてしまうという進言を受け、函谷関を閉ざし項羽を防ごうとしました。
しかし、秦軍の主力と交戦していたのは項羽であるにも関わらず、関中を独占しようとした劉邦の行いに憤慨した項羽は函谷関を突破し、敵わぬことを悟った劉邦は膝を屈し、関中の王の座を項羽に譲りました。
そんな劉邦に項羽は漢中(名前が似ててややこしいですね)の地を与え、劉邦は漢王を名乗ることとなったのでした。
その時「左に遷す」と表現したことから、左遷という言葉が生まれた……という説もあるようですね。
「広義の『関中』には漢中も含まれているという視点から、約束は果たされたと言えなくもない」という見解がWikipediaの劉邦や漢中のページに記述されていますが、漢中がどういう場所なのか考えるとやはり「左遷」であったかなあという印象を受けます。
逆襲の地
当時の漢中は、大変な僻地でした。山々の間に設けられた桟道は険しく、そこに向かう道の途で将も兵卒も逃げ還る有様。
それでも劉邦は従順を装って雌伏を続け、やがて項羽の隙を突いて大規模な攻勢に移りました。
そしてついに項羽を打ち破った劉邦は、漢という名の王朝を開いたのでした。
劉備が漢中王を名乗ったのは、劉邦の故事をなぞることで自身が正統な後継者であるという権威付けを行ったのかな? と考えがちですが、劉邦のエピソードを踏まえてみると「いずれは天下を統一する」という野望も込められているのかな? とも思えます。
劉邦の根拠地となったわけですから、漢以後は発達したのかな? と考えがちですが、必ずしもそうではなかったようで、
異民族である羌の勢力圏と境を接しているせいか、時代が降って後漢となってからも度々漢中の太守が羌人に殺されたという記述が歴史書にみられます。*1*2
あるいはそういう地であるからこそ、五斗米道という独自の宗教が勢力を築き上げたりしたのかもしれませんね。
いつかは通読したい史記。時間とお金が無限にあればなあ……。