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三国志11PK動画「呂玲綺で英雄集結いってみよう」別館

張繍

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「操賊我を辱しめること太甚なり!」

――羅貫中三国志演義」より




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特技:騎将

自分より武力の低い敵部隊への騎兵戦法成功時クリティカル



騎将張繍

周囲を大勢力に囲まれた苦しい状況ながらも、優秀な配下武将を上手く運用すれば見事に切り抜けられる。
この上級者向けな「美味しい」バランスから、コーエー三国志では常に人気君主の一角を担っていますね。
11では騎将という強力な特技を与えられたことから、育てれば主軸として最後まで活躍出来る存在となっています。

物語において曹操をあと一歩のところまで追い詰めた武将は呂布劉備孔明)、あと馬超もそこに入るでしょうか。いずれも有名所ばかりですが、そんな中異彩を放つのが張繍です。
叔父は董卓の配下、しかも物語の中では影が薄い存在。本人も勢力としては小粒です。そんな彼が、賈詡という三国志屈指の名参謀のサポートがあったとはいえ、曹操をあわやというところまで追い込むという晴れ舞台を与えられたというのは、物凄い快挙といえるのではないでしょうか。

もはや語るまでもないことですが、張繍をその行為に走らせた大きな原因は、叔父・張済の未亡人である鄒氏を曹操が我がものとしてしまったことです。
張繍の叛意を知った曹操が除こうとするも計画が漏れ、張繍が逆に奇襲をかけ曹操を襲い大いに破るという流れが魏書の張繍伝には記されています。
演義においては、曹操の計画部分が省かれていますが、ストーリーのテンポを考えると「鄒氏手込めにされる→張繍怒って襲撃」の方が分かりやすくていいですね。
この辺、「史実」に捕らわれずに物語性・エンタテイメント性を重視して柔軟にストーリーを構築していく演義の面目躍如といったところでしょうか。


動機はどこに

君子行という歌があります。
曹植が作り、のちに南北朝時代に編まれた詩文集である文選などに採られ、「李下に冠を正さず」という言葉の出典にもなりました。

その君子行には、「嫂叔は親授せず」という一節があります。
兄嫁とは親しくもののやり取りをすべきではない。すなわち、親密さを疑われるようなことをすべきでないという意味ですね。
兄嫁への思慕の存在が噂される曹植の言葉であるからして深読みしたくなるところでもありますが、こういう教訓が語られるということは、実際にそういう事例が沢山あったということでもあるはずです。
起こるべきではないことが起こってから後でもたらされるのが、教訓なのですから。

そのことを踏まえて、張繍の怒りを改めて検討してみると、そこに微妙な色合いが見えはしないでしょうか。
太祖済の妻を納れ、繍之を恨む。陳寿のシンプルな文体のその背後には、深い深い愛憎が横たわっているのかもしれません。

張繍の死

さてそんな張繍ですが、乾坤一擲の勝負に出たのち、賈詡の進言で再び曹操に降りました。
曹操は彼を迎えて宴を開き、張繍の娘を自分の子(曹均)の妻に娶らせ、揚武將軍の位を与えます。
ここで許すのが曹操曹操たる所以ですが、しかしそれは必ずしも一族の美徳として受け継がれはしませんでした。

曹操を打ち破った武勇を買われてか、張繍は北方戦線を転戦します。官渡で手柄を立て、南皮で袁譚を打倒し、烏丸と戦っている最中に陣没します。
陳寿

「烏丸を征すに従い、未だ至らず、柳城において薨す。諡して曰く定侯」

と淡々と記す一方で、裴松之は魏略を引いてその裏事情に光を当てました。

五官将しばしば会はんと請うに因りて、怒りを発して曰く「君我が兄を殺せり、何ぞ忍びて面を持し人を視るや!」
繍が心おのずから安んぜず、乃ち自殺す。

我が兄、というフレーズからも読み取れる通り、五官将とはすなわち曹丕のことです。曹操は個人的な感情を越えて張繍を受け入れましたが、曹丕は完全な拒絶を突きつけたわけです。

張繍は傷つきあるいは怯え心の安定を失い、自ら命を絶ちました。戦場での名将が、敵意に満ちた言葉から死を選んでしまう……という辺りに人間の心の不思議さがあるわけですが、その心の弱い部分に、自分が曹操を襲ったその理由が潜んでいる……というのは飛躍しすぎでしょうか。

いずれにせよ実に悲劇的な最期ですが、演義は彼の死について語りません。同時期に郭嘉という巨星が墜ちているため、省かれたのでしょうか。
ストーリーの流れを考えると致し方ないことかもしれませんが、せめて一言添えておいてくれれば……と一抹の寂しさを覚えてしまいます。

諡して曰く定侯

死後彼は定侯と諡されました。純行不爽曰定、と諡法にはあります。
爽にはさわやかだけではなく、違えるとか誤るとかそういう意味もありますので、行いは純粋にして違背することがなかった、ということになるのでしょう。(他にも民を安堵した云々という意味も定という諡にはありますが、彼には不似合いに感じられます)
さあ、果たしてどういう方向で純粋であったのか。はっきりした根拠はありませんが、少しだけ勘ぐりたくなってしまうのでした。




張繍は魏書に単独で立伝されていますが、字は伝わっていません。なぜなのでしょうね。