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三国志11PK動画「呂玲綺で英雄集結いってみよう」別館

上庸

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「歎きて曰く、『劉封、申耽、金城千里に據りて之を失うか!』」

――干宝「晋紀」より




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孟達劉封がいたところとして有名なこの地。
その名は、春秋に存在した庸という国に由来しているそうで、南朝宋の裴駰が著した史記集解(史記の註釈)には、「杜預曰く、庸は今の上庸縣なり」と記されています。
ちなみにこの杜預は、もちろんあの杜預です。いかに学者として事績を残したかが分かりますね。

調べてみるとなんか今でも奥地みたいで。
孟達が降伏して取り立てられた後、「劉封、申耽,金城千里に據りて之を失うか」(劉封・申耽は、広大な要害の地を根拠地としながら、これを失ってしまった)と歎いていたり、夏侯尚が「劉備の別軍上庸に在り、山道險難にして、彼は我に虞(そな)えず」(劉備の別働隊が上庸にいるが、山道が険しいことからこちらに備えていない)と上奏していたりしますが、まさしくそれらの言葉通りと言えそうです。

少し調べてみると、晋書の五行志下には、晋の二代皇帝である恵帝が位にあった元康四年の2月、上庸で災害があったことが記され*1、同じ年の6月には山崩れと地割れが発生。*2
8月に上庸の四ヵ所で山が崩れて家が潰れ人的被害が出て、広さ三十丈、長さが百三十丈に渡って地が墜ち(陥没したんでしょうか)水が出てまた命を落とした人が出たとのこと。*3
晋書では「皆賈后乱朝の應えなり」とか賈南風のせいにされていてますが、地盤がダメージを受け、少ししてから崩壊してしまったというところでしょうか。

ほかにも流刑地にされていたと漢書にあり、武帝により廃された斉東王の劉彭離が流されていたり、宣帝により廃された広川王劉去が上庸に流される途中自殺したりというエピソードが見られます。
どうも気軽に訪れられる場所ではなかったようです。ここを縄張りにする申兄弟が魏を裏切っても再び迎えられたことや、劉封孟達関羽救援に動かなかったことなども、その辺に理由の一つがあったのかもしれませんね。






Amazonレビューには「晋という時代についての解説書である」とありますが、一応抄訳は多少載っています。
しかし本当に一部分なので、詳しい内容を知りたければ白文と取っ組み合うしかないみたいですね。


*1:「四年二月,上谷、上庸、遼東に地震あり。上庸郡山崩し,二十餘人を殺す」

*2:「壽春に大雷あり,山崩地坼し,人家陷りて死す,上庸また之の如し」

*3:「上庸四處山崩し,地は廣さ三十丈,長さ百三十丈に墜ち,水出でて人を殺す」